2014年3月31日月曜日

コバルト色って?

家にある顔料を整理していたところ。
「コバルト」とだけ書かれたビニール袋に入った
漆用のレーキ顔料がありました。
もちろん、青い顔料が入っていましたが、ここでふと、あれっと思いました。

コバルト(Co:原子番号27)は遷移金属で、その色は銀白色です。


例えば、集英社の「コバルト文庫」、
宮城のサッカーチーム「コバルトーレ女川」は
コバルトブルーをイメージして命名されたことは間違いありません。

揚げ足を取るわけではありませんが、
コバルトは別の物質と組み合わさらなければ青にはなりません。
そして、組み合わせる物質を変えれば青だけでなく、
黄色(オーレオリン)、緑(コバルトグリーン)にもなります。
しかし、多くの人にはコバルト=青のイメージが定着しています。

我々が慣れ親しんでいる陶磁器の「染付(そめつけ)」、
その青を発色させる「呉須(ごす)」という色料は酸化コバルトです。
(市販品には少量の鉄とマンガンが含まれています)
アフガニスタンのあたりでコバルト(天然の呉須は黒褐色)が産出したことにより
中国では景徳鎮などの産地で染付(中国名「青花」)が
盛んに行われることになりました。
これらは欧米では"blue and white"と呼ばれて引っ張りだこになり、
欧米でも工夫した類似品が各地で作られました。
この洗面器はイギリスで18世紀頃に作られたものです。

欧米では白地に青の焼き物が「東洋」のイメージだったようで、
特に、"Willow Pattern"と呼ばれる、柳と東洋風の建物が描かれた模様は
現在でも複製品が作られているほどポピュラーです。

ヨーロッパには、東洋の陶磁器コレクションを並べた
東洋風の部屋がある城や宮殿が多数あります。
残念ながら写真撮影ができないところも多いのですが、
例えば、ミュンヘン郊外にあるNymphenburg城にある東洋風パゴダは
一階の内装が青と白で統一されています。

 左側が塗装、中、右はタイルをはめこんだものです。
天井部分は塗装です。

18世紀頃のヨーロッパ人の理想とする東洋のイメージが描かれています。
彩色に使われているコバルトブルーはアルミン酸コバルトで、
アルミニウムが含まれています。

さて、コバルトブルーがあまりにも耐久性に優れた顔料であるため、
忘れ去られてしまったコバルトの青顔料があります。
それが、珪酸コバルトの粉末「スマルト(smalt)」
日本名は「花紺青(はなこんじょう)」です。
これはドイツのKremer Pigmenteで販売されているSmalt, standardです。
この他にもSmalt, very fineという、これより薄い色があります。
左は、粉末にする前のスマルト、つまり、珪酸コバルトの塊です。

スマルトは日本画の岩絵具と同様、
粗い粉末ほど色が濃く、細かくなるほど色が薄くなります。
そのため、色を残すため、粒子の細かさにも限界があります。

スマルトはラピス・ラズリのような大変きれいな顔料なのですが、
スマルトは粒子が粗いため、
均一に塗るにはこのような薄塗りを繰り返すなどの工夫が必要となる他、
油に混ぜて使うと酸化、黄変してしまうことなどもあり、
油絵の顔料としては15世紀から18世紀頃までしか使われていないため
絵画の時代判定の際、ヒントの一つともなっています。
しかし、膠やアラビアガムのような水性バインダーや
近年ではアクリルのバインダーならこういった変色は起こりませんから、
現在、Kremer Pigmenteの他にも、
ロンドンのL. Cornelissen&Sonでも販売されています。


一つ注意として、Kremer Pigmenteで使っているポリ瓶に長期間保存しておくと
日本の高温多湿の環境も影響するのか、
ポリ瓶から発生するガスにより、徐々に褐色に変色します。
日本での長期保管はガラス瓶に移し替えることをお勧め致します。

実は市販されていませんが、スマルトも青だけでなく、黄色や赤があるそうです。
(Eastaugh, Walsh他"Pigment Compendium", Routledge, 2008による)

残念ながら日本ではコバルトはほとんど産出されないため、
海外からの輸入に頼らざるを得ないのですが、
コバルトがなければできない工業製品も多いそうです。
欧米人が、日本も含めた東洋をイメージする色の原材料が
実は日本にはほとんどない物質だということは面白いですね。

2014年3月23日日曜日

丹波漆の植栽地

現在うちにある漆の木は、2010年3月末に
京都福知山市夜久野町の丹波漆生産組合長(現・NPO丹波漆理事長)
岡本嘉明さんから譲っていただいたものです。

当時、丹波漆生産組合では前年の12月頃に
有志が集まって苗木植樹を行っていました。
これは、漆苗木の根が春になると生長を始めてしまうためで、
3月末だと「ぎりぎりかな〜」とは言われましたが、
当日の道中は時折吹雪になるような天候でした。
苗木を持ち帰るために父に車を出してもらいましたが、
せっかくなので丹後の漆濾し紙製造の田中和紙さんや、
その近くの元伊勢の神社に寄ったため、福知山に到着したのは夕方になりました。
 こんな景色が数分後には
こんな感じになり、雪になります。
翌朝はこんな感じ。
ブータンのパロの盆地の景色を彷彿とさせられます。

翌朝は幸い晴天になり、まずは植栽地を見学しました。
文化庁から「ふるさと文化財の森」に指定された植栽地。
立派な看板が立っています。

漆を掻けるようになるにはもう少しかかります。
葉がないと寒そうに見えますが、夏には葉が生い茂っています。

こんなに寒いのに、既に毛虫がついていました。
もちろんさっそく駆除です。
ここ数年の異常気象のせいか、こういった害虫の他にモンパ病や
猪や鹿の被害も甚大で、ここにも電気柵が設置されていました。

 前年に植えた川の近くの植栽地です。
水が多いので、盛り土をしたところに植えられています。

ちなみに、この近くには、「やくの玄武岩公園」という場所があります。
この近くには、京都府唯一の火山である田倉山(宝山とも)(標高349.7m)があり、
その火山の溶岩がこのように固まったというわけです。
県境を挟んだ兵庫県の豊岡市には「玄武洞」という場所がありますが、
「玄武岩」という名前はもともと江戸時代の儒学者、芝野栗山が、
ここが伝説上の動物「玄武」の姿に見えると名付けた「玄武洞」にちなみ、
1884年に東京大学の地質学者だった小藤文次郎により名付けられたのだそうです。
 イギリスにはGiant's Causeway(Led Zeppelinの「聖なる館」のジャケットの撮影場所)
という有名な場所がありますが、
日本にも似たものがあることに正直驚きました。

 丹波漆にはこのような見晴らしの良い植栽地もあり、
ちょっと斜面の日陰になっている場所もありました。

この写真に写っている木は、一昨年、昨年で全て漆掻きをされて、幹は切り倒され、
新たに新しい苗木が植えられています。
写真では見えませんが、右手方面に田倉山火山があります。
 この山のおかげで、このあたりにはクロボクという良い土があり、
漆の木が良く育つというわけです。

さて、帰宅した翌日さっそく苗木の植え付けを行いました。

1年生の苗木の植え付けは父が完全に主導権を握ってしまい、
私は別に頂いていた漆の根(鉛筆くらいの太さで10~15cmに切ったもの)
を植える作業をしました。
丹波漆は全て分根法で苗木を作っています。
分根法は親木と全く同じ性質を引き継ぐ、つまりクローンができるのです。

この時植えた1年生の苗木が現在3メートルくらいになり、
また、根っこから育った苗木がこんな感じです。

梅の花の季節も終わり、漆の根もそろそろ動き出す頃でしょう。

2014年3月21日金曜日

"美しい家"と"美しい本"

現在、東京では19世紀イギリス絵画の展覧会が2つ同時に開催されています。
「ザ・ビューティフル」三菱一号館美術館(ヴィクトリア&アルバート博物館所蔵品)
「ラファエル前派展」森アーツギャラリー(テート・ギャラリー所蔵品)

この2つの展覧会の作品に関わる重要人物の一人が
ウィリアム・モリス(William Morris)です。
ヴィクトリア&アルバート博物館にはモリスの部屋があります。
もともと食堂として作られたこの部屋は、しばらくの間
家具など一切置かないで内装がじっくり見られるようになっていましたが、
博物館の財政を少しでも改善するため再改造され、現在ではカフェになっています。

ロンドンにはモリスに関係した場所がたくさんあります。
生地である北東部Walthamstow(「ウォルタムストゥ」と発音)のモリスの旧宅は
"William Morris Gallery"となっており、
郊外にはRed Houseと呼ばれるナショナル・トラスト管理の元住居、
そして西部Hammersmiths郊外には、モリスが晩年を過ごした、
現在WIlliam Morris Societyの本部がある
ケルムスコット・ハウス(Kelmscott House)があります。

この家はモリスの生まれる前の1780年代に建築されたものですが、
モリスが先にグロスターシャー郊外に持っていた別荘、
Kelmscott Manorにちなんで命名したそうです。
実は、目の前のテムズ川の上流にKelmscott Manorがあり、
舟で行き来できたからだとのことです。
モリスは最初ここでカーペットのような織物を作っていましたが、
そののち、社会主義運動に傾倒してからはここで集会を開いたり、
近くの建物を使い、彼の理想とする「美しい本」
"Kelmscott Press"を製作しはじめました。
入り口は階段を下りたところです。

馬車の出入り口だったところが入り口になっています。

モリス達が理想とする「美しい本」を目指して作っていた
Kelmscott Pressを印刷していたプレス機です。


使われていた活字の現物も残っています。

活字の書体も、中世の手書き文字からデザインしたものです。

文字だけでなく、19世紀後半までは挿絵も手で彫られた活版が使われていました。

当時の新聞の図版は、専門職人がツゲの木を彫って作っていたのは知っていましたが、
ここではツゲでなさそうなベニヤ板まで使っていたということに驚きです。
緻密なツゲよりも柔らかい線が彫れたということでしょうか?

1983年にWIlliam Morris Societyがこれらの活字と図版を手で組んで、
手漉きの紙に印刷した見本です。
わざと耳を残した仕上げです。
右ページにはKelmscott Houseの正面と、
以下の文章が書かれています。

"...if I were asked to say what is at once the most 
important production of Art, and the  thing most
to be longed for, I should answer, a beautiful House;
and if I were further asked to name the production
next in importance... I should answer, a beautiful 
Book. To enjoy good houses and good books in
self respect and decent comfort, seems to me to be
the pleasurable end towards which all societies of
human beings ought now to struggle."
William Morris

第1に美しい家、第2に美しい本、
それがKelmscott HouseとKelmscott Pressだったとしたら
ここは彼の美学が完結した場所と言えるのかもしれません。

Kelmscott Pressについての解説文もオリジナル活字で印刷されています。

モリス(写真前列中央の髭の男性)の右は娘のメイです。

中庭が見える奥の部屋です。
椅子などもシンプルです。

 窓から見える階段。
モリス直筆のデザイン画や、

このような人物画も飾られていました。

親友ロセッティとモリスの妻Janeの複雑な関係を知ってしまうと、
晩年のモリスは宗教的なものに救いを求めていたのかも?と勘ぐってしまいます。

そして、目の前が別荘のKelmscott Manorにつながるテムズ川です。
このあたりはまだそれほど川幅も広くありません。

写真の右手方向にテムズ川を上った先がKelmscottです。
そして下流のテムズの支流であるウォンドル(Wandle)川には、
彼が染織工房を構えたマートン・アビー・ミルズ(Merton Abbey Mills
現在は商店や住宅、イベント会場になっていて古い建物はごくわずかです)、

さらに先の支流リー(Lee)川の近くが生家のMorris Gelleryです。

Kelmscott Houseは、木曜と土曜の午後2時から5時までしか開いていませんし、
スペースも狭く、展示品もそれほど多くはありませんが、
私が訪問した時には手摺りのオリジナルカードなども販売されており、
地下鉄ディストリクトライン、レイヴンズコート・パーク(Ravenscourt Park)駅からも
それほど遠くありませんから、
モリス好きの方には郊外のロンドンも見られて良いかと思います。

2014年3月13日木曜日

稲わらと麦わら

3月になってもなかなか暖かくならないですね。
冬の間は、畑の植物の寒さ避けのために枯れ草や稲わらをかけておくのですが、
今年は父が麦わらをもらってきていました。
自分が小学生の時には、比較的温暖な地区で同じ田んぼで1年で稲と麦の両方を育てる
「二毛作」について勉強しましたが、
最近では休耕田で麦だけを育てていらっしゃる方がおられるようで、
時期によっては麦わらが手に入るようです。

麦わらと稲わら、同じ藁でも良く見ると全く違います。
こちらが小麦の麦わら
茎が中空でしっかりしています。
こちらが、少々古いですが前年の稲わらです。
麦に比べると特に茎の形状と堅さが違います。

ジュースなどを飲むストローは、元々は「麦わら」という意味です。
麦わら帽子はstraw hatと言います。
稲わらは残念ながらストローにはなりませんが、
縄、筵(むしろ)、草鞋(わらじ)、菰(こも)、蓑(みの)など、
日本人の生活に密着した品物が作られてきました。
特に縄や草鞋を作る場合は、砧で叩いて藁に柔軟性を出してから編みます。
暖かい日には祖父がお祭り用の草鞋を作っていたのを思い出します。

欧米で麦わらはベッドやクッションの詰め物はもちろん、
コーン・ドリーや、中北欧のクリスマスの飾りなども有名です。
http://www.pinterest.com/ohmycraft/straw/
corn dollyのcornとはトウモロコシだけでなく、穀物全般を指します。

また、イギリスには、色を染めた藁を切って箱などの表面に貼り付けた
Tunbridge Ware(タンブリッジ・ウェア)という製品もあります。
作っている場所はイギリス南部のRoyal Tonbridge Wellsなのに、
製品はTunbridgeと綴るのが少々ややこしいです。
http://www.marquetrysociety.ca/Techniques.html
イギリスの友人は、日本の箱根細工のようだと言っていますが、
城崎温泉の麦藁細工に似ているかと思います。
どちらも麦藁の持つ独特の艶がなかなかきれいです。

日本で麦わらと言えばまず帽子が浮かびます。
日本での麦藁帽子の生産高第一位は岡山県で、
麦わらを真田紐のように平たく編んだ
「麦稈真田(ばっかんさなだ)」というものが使われます。

今では麦藁帽子は100円ショップでも売られている時代です。
100円ショップで買った麦藁帽子の表面ですが、
これはこれで普段使いに全く問題ありませんが、
さすがに国産の高級品は緻密な作りだなと改めて感じさせられます。

福岡正信さんの無肥料無農薬の自然農法でも
収穫後の田んぼに振りまく麦わらと稲わらを厳格に使い分けることが
重要なポイントのようです。
藁に含まれる成分だけでなく、
藁の形状や性質も関係しているのは間違いないだろうなと、
この冬、何度かの積雪と霜を経た後も
朝日にぴかぴか光ってしっかり畑に残っている麦わらを見て思いました。

2014年3月4日火曜日

本都富有瑠漆器

「本都富有瑠漆器」
ご覧になったことがある方はおられますか?
「ぽんとぷうる」とカナがふってありますが、
京都の先斗町(ぽんとちょう)とも字が違いますね。

これは、日本から遠く離れたイギリスのウェールズの町
Pontypool(ポンティプール)で、
漆を真似て作られたいた金属製の塗装品のことです。
現在も骨董で「Pontypool」と言えば、生産地にかかわらず、
金属を黒く塗装して金加飾した器物全般を指します。
この漢字を当てたのは、たまたまこの近くに住んでいた日本人の方だそうですが
漆器?というのは日本人には少々違和感があります。

これは、2003年当時の、ポンティプール博物館内の
ポンティプール製品展示室の様子です。
(現在は改装されたようです)

右手のケースに入っているのが
ポンティプールで一番有名な白と青の花模様の製品です。
模様部分を拡大するとかなりの立体感があることがわかります。

別の製品に描かれた花もまるで油絵のようですが、
本には、この素材は水彩絵具だと説明されていました。
ちょっと信じられません。

金箔だけで加飾した製品もあります。

スクラッチで立体感を出しています。
同じ金箔でも、種類の違う金箔を使ったり、陰影をつけた複雑なものも。

ティーポットやら
飾りトレイやら

このお皿に描かれた模様も典型的なポンティプール模様です。


同じ形の小箱も塗装法の違いでこんなに違って見えます。
金属の上に木目というのは面白いです。

もちろん、漆を意識した東洋風模様の品もあります。

Pontypoolはウェールズでもかなり小さな町で、
辛うじて電車の駅はあるものの、一日に数本しか停車しません。
私が行った日はヨーロッパの記録的猛暑の年の8月で、
線路が暑さで伸びてしまったための徐行運転が続き、
Bristolで乗り継ぎの電車の接続に間に合わず、次の電車は2時間後。
しかし、これが逆に幸いして、タクシー代を全額鉄道会社持ちで、
博物館の玄関先まで送ってもらえました。
Pontypool駅から博物館まで徒歩で30分くらいかかるようでしたから
まさに災い転じて福となす、です。

さて、話は戻って、
どうしてこの土地でそんな産業が発展したのでしょうか?
この地には鉄鉱石と、鉄を溶解する燃料の石炭が産出したのが最大の理由です。
この地に鉄工会社を開いた、ロンドン出身のハンベリー氏の肖像です。
ハンベリー氏の会社は1700年代前半に、
世界で始めて鉄の薄板の製造に成功しました。
さらに、鉄の表面に錫メッキをすることにより、
それまで不可能とされていた鉄の表面への塗料の焼きつけを可能とし、
社員だったオールグッド氏が、漆風の塗装製品の工房をこの地に開いたわけです。
黒い塗料の主成分は、亜麻仁油とアスファルトをベースにしたものですが、
後には黒だけでなく赤や緑なども作られました。
油絵風の絵は、最初の黒塗装を焼き付けた後に
数回に渡って職人が手描きし、焼き付けされたものだということです。

当時の工房の様子です。
ポンティプールの製品は"Japanware"として世界各地に輸出されたばかりでなく、
喧嘩別れした親族が、近隣のUsk(アースク)という地区で、
さらにはイギリス中部や、アメリカでも同様の品が製造されました。
他地区で作られた品も広告ではPontypoolとして宣伝されたこともあり、、
これらが現在でも全て「ポンティプール」と呼ばれているわけです。
日本と全く関係のない土地で作られた製品が世界で"Japanware"と呼ばれているのは
日本人には不思議なものです。

しかし、そんなポンティプールの栄光の歴史は短く、
残念ながら他地区との競合に負けてしまい、1820年には工場は閉鎖され、
親族の経営していたUskの工場も1860年代には閉鎖されてしまったそうです。

博物館の人に教えてもらい、当時の工場のあった通りの坂の上にあるという
記念壁画を見に行きました。

このLower Crane Streetは、当時はJapan Streetとも呼ばれる程だったそうです。

壁画は、トンネルを囲むように作られていました。

ジャパンウエアの製造工程が描かれています。

当時の商品とお店の様子ですね。

説明パネルもちゃんとあります。


これが、そのLower Crane Streetですが、
当時、夏の夕方5時台で、人っ子一人歩いていないような寂しい通りでした。

Bristol駅から博物館まで乗せてくれた50代くらいのタクシーの運転手さんは、
日本人がたった一人で、どうしてこんな田舎町に用事があるの?と
興味津々で話しかけてきました。
「世界でも有名なポンティプール製品を調べに来た」と言ったところ、
自分の親はPontypool出身で、何度も行ったことはあるけれど、
あの町にそんな製品があったことなんかこれまで全く聞いたこともない!
是非両親に聞いてみるし、博物館にも行ってみる、と言ってくれました。

外国人の自分が、地元の人に地元の過去の産業を教えることになるというのは、
この後も何度か経験しました。